昨日はサンフランシスコいって、ニーチェの「ツァラトゥストゥラはこう言った」買って、ヘリゲルの「日本の弓術」を立ち読みしてみた。
まずツァラトゥストゥラの方だけど、これはまだ前半数十ページしかまだ読んでいないが、自分に理解できる気があんまりしない。内容云々が問題ではなく、文体があわない感じ。
Wikipedia曰く
本書は近代において書かれた哲学研究としては独特な文体を備えている。それは哲学書というよりも小説や神話のような文体であり、実際に文学においても影響を与えている。ツァラトゥストラは時には対話し、自問自答し、また詩を歌うことを通じて哲学の議論を読者に示唆している。このような文体は議論の一貫性を通じてその論理展開を読者が理解していくのではなく、その修辞的な表現を通じて常に読者に解釈を要求するものである。
というものらしい。
いやほんと「おまえなに言ってんだ?訳の分からん表現使わずちゃんと言え」ってところが多々ある。しかし、BARTの中で半分うたた寝して読んだせいも多々あると思われるし、なによりせっかく買ったんだからとりあえず一読はしてみるつもり。でも「ニーチェ解説本」みたいなのを一読後に読む必要がありそうだ……
あとそもそもこの本を理解するためには、それまでに読まないといけない本がたくさんありそう。
一方、「日本の弓術」だけど、ニーチェと比べると圧倒的にわかりやすくて面白かった。
ドイツ人であるヘリゲルが、日本の弓術の考え方を理解しようとつとめるも、なかなか「理屈で理解する」という考え方を捨てきれず四苦八苦した様が描かれている。
本書では、弓道の目的は弓と矢を用いて的を狙うこと「ではなく」、その行為が要求する精神的な集中こそが弓道の目的である、とある。
つまり極論してしまえば弓矢はいらないってことなんだよね。
師匠に「的を狙うな。狙わずに当てなさい」と何回も説かれるも、「ごまかし乙。んなもん無理に決まってんだろ」と技術に固執するヘリゲルに萌えた。まあ誰でもそう思うわな。
指の配置を変えてみたりすることで、なんとか形を取り繕おうとするも、それを見た師匠に一発で看破されてしまうヘリゲル萌え。
そこでヘリゲルの師匠は暗闇の中で遠くかすかに燃える蝋燭(だったはず)を一本目の矢で居抜き、さらにその一矢目を二本目の矢で射抜くという神業を披露。
「どうしてなにも見えない暗闇にある一本の矢を見えずとも射抜けたのか?」
私は疑うことも問うこともきっぱりと諦めた。その果てがどうなるかなどとは頭をなやまさず、まじめに稽古を続けた。夢遊病者のように確実に的を射中てるほど無心になるところまで、生きているうちに行けるかどうかということさえ、もう気にかけなかった。それはもはや私の手中にあるのではないことを知ったのである。
こういう精神的なものって日本人にはある程度まではなじみ深いけど、西洋の人には理解するのは、ほんと難しいんだろうな。非合理につきると言うか。
自分たちの文化を他文化の人間がどう捉えようとしたかについて読むのは楽しいね。
本自体はびっくりするくらい薄いんだけど、内容がその分濃縮されてる感じ。
ニーチェ買うよりもこっち買った方が全然よかった気がする。
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